「怖くなったら鳴らすんだよ」
「鳴らすの?」
「うん。そしたら僕も、鳴らすから」
「鳴らすの」
「ほら、聴こえるってことは、近くにいるってことになるで しょ」
「見えなくてもわかる!」
「うん」

答える彼は、きっと花開くようにフワリと笑んだのだろう。 手渡されたのは、緋色の紐が付いた銀の鈴。それを握り締め る。視界に浮かんだ金糸の間の、菖蒲色が弓なりに細くなっ た。



ちりん、と聞き慣れた音が鼓膜をくすぐる。 次いで廊下を歩く足音が聞こえた。床板が軋み、音が近付いてくる。一歩、二歩、三歩。あと十二、足音を数 えたら襖が開く。堪えきれず綻んでしまう口元に、つい悪戯心が発露する。壁伝いに、部屋の入り口である襖の真横にゆっくりと移動した。その際に座布団らしきものを踏んづけ、思わず転びそうになってしまった。
慌てて体勢を立て直し、襖のすぐ側でしゃがみこむ。
九、十、十一……。
あと、一歩。
しかしそう思ったところで、十二歩目を数える前に襖が開く音が鼓膜を突いた。滑るように開いたそこから、廊下のひんやりとした外気が流れてくる。目の前で色が動き、声が降ってきた。

「驚いた?」
「私、数え間違えてないはず」
「僕が敢えてずらしたんだよ」
「!」

目の前の顔がクスリと笑うのがわかった。ああ、今日は負けてしまった。そう息を吐き、畳に四肢を投げ出す。すると指先に座布団らしきものが触れた。それを抱え込み、真上にある色を見上げた。

「マツバはだんだん余計な知恵を付けてくる」
「君が言ったんだよ。僕は鈴を鳴らして十五歩でここに来るって」
「もう驚かせないじゃないの」

いい年した大人が何て格好で何てことを言うんだ。彼は可笑しそうに笑いながら私の傍らに腰を下ろした。
その気配に菖蒲色を何とか探し出し、それを視界に収める。同時に菖蒲色は目の前までやって来た。ぼんやりと、彼の顔の輪郭が分 かる。最近、また視力が落ちただろうか。今では物の輪郭を 捕らえることもできず、色しか判別できない自分の目に嫌悪 がよぎる。 私は生まれつき弱視だった。矯正したって、見えやしない。だから字を読むことも書くこともできない。点字などもそれなりに覚えた。しかしかろうじて私の瞳孔は光に反応するのだ。色の判別だけはできた。真っ暗闇の中に放り出されるよりは、ずっと幸福なことだ。

一人でそんな思考を巡らせていると、不意にマツバに脇腹をつつかれた。反射的に飛び上がると、私の手首に付いた鈴がりんと鳴った。彼はカラカラと笑う。

――この鈴は、幼なじみである彼がくれたものだ。見えなくて もそばにいるのがわかるように。或いは、すぐに見つけられるように。弱視の私に、彼が幼いころ与えてくれた。また、 彼自身も私がわかるようにと鈴を持っている。彼は必ず私の 家にやってきた時、自分が来たことを知らせるために鈴を鳴 らすのだ。

「ちょ……やめっくすぐったいから!」
「あははは」
「笑わない!」

その手から逃れようと、じたばたと畳の上を転げ回る。すると注意が不足していたせいか、額のあたりに鈍い衝撃が突き抜けた。同時に彼から小さな呻きが漏れる。間を置いて地味な疼痛が額に走った。ああ、どうやら盛大に頭突きしてしまったらしい。黙り込んでしまった彼が、痛みに静かにうずくまっている。

「ま、マツバ、大丈夫?」
「ん……」
「どこぶつけた?  おでこ?  頬?」
「眉間」
「ああごめん」

手探りで目の前の金色を触る。菖蒲色が二つ見え、それに向かって手のひらを這わせた。まるで母親が小さな子供にするように、患部らしき部分を撫でた。柔らかな体温が伝わる。
……昔はよく、私が転んで、そのたびに彼が慰めてくれた。
立った時点で足元などほとんど見えなくなってしまう私は、ひどく頻繁に転んでは怪我をしていたのだ。それはもう呆れ るほどの頻度だったのに、彼はよく私に付き合って遊んでくれたと思う。
今もそうだ。
ジムの仕事の合間を縫ってこうして遊びに来てくれる。
私は彼の鈴が聞こえるたびに、いつも嬉しくなるのだ。

「name、前から言おうと思っていたんだけど」
「なに?」
「顔、近過ぎる」
「……」

唇に彼の吐息が触れた気がした。 間を置いて、顔を後ろに退ける。正直、見えないからあまり恥ずかしいとかそういうものがどうにも発露しない。一応成 人しているのだし、気をつけた方が良いのだろう。
ふ、と彼の体温が手のひらから離れる。反射的に指先が宙を掻いた。しかしすぐに鈴の音が耳朶に触れる。

「寂しがり屋なのは相変わらずだね」
「マツバのからかい方は質が悪いよ。すっごく悪い」
「僕はここにいるだろう?」

笑い声が響いて、頬に低めの体温が触れた。彼の、手のひら だろう。見えないから、音で、感触で、感じるしかない。彼は今、どんな顔をしているのだろうか。頬に触れている手に指を這わせた。

「マツバの手はいつも冷たいね」
「そうかい?」
「うん、でも、いいと思う」
「……」
「よく言うでしょ、手が冷たい人は心が温かいって」
「!」
「だから、うん、好き」

優しい君が好き。
しかしその言葉は敢えて呑み込み、腹に戻した。そしてもう一度顔を近付けた。近過ぎるとまた言われると 思ったが、私は構わなかった。どんなに頑張ったって、彼の 顔はうまく見えない。

だから気休めでいい。近付けて、少しでもその顔を見ていら れるような気になりたかった。

20110214

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